※当時の実家にて2歳ころ。
【幼少期とできごと】
1982年5月・群馬県藤岡市生まれ。
両親と姉との4人暮らし。
小さいころからお姉ちゃん子でいつも姉と一緒にいました。
姉と一緒に「ぬいぐるみ」を集めていたようなおとなしい性格でした。
お気に入りのぬいぐるみは雷さまのキャラクターの「ピカポン」(?)でした。
また、肌ざわりが良いものが好きで、毛布などが好きでした。
(今でも洋服選びの優先順位は生地の肌ざわりが高いです)
【学生時代とできごと】
※藤岡市立小野小学校時代
小太りだったため運動神経は良くなかったですが、友人と一緒に4年生からソフトテニスを始め、熱中しました。
5年生の時に全国大会に出場しました。(他のスポーツはいまいちできませんが、テニスは鍛えられました。)
全”国”大会と聞いて「インド人の人とかともテニスできる!」と喜んでいるような、世間知らずでした。日本”国”ですよね。当時は本気で世界大会だと思っていました。(なぜ世界大会を北海道の苫小牧でやることには少し、疑問を持っていましたが。)
また、向こう見ずな性格もあり、遊びの中で腕を骨折をする事もありました。
※藤岡市立小野中学校時代
ほとんどの生徒が小学校からそのまま進級なので、生徒たちは皆、仲が良い学校でした。
ソフトテニスは続けていましたが、また授業中に足首を骨折するなどなかなかうまくいきませんでした。結果は県大会2回戦突破程度でした。当時は周りの友人が成長期で、自分の成長期が遅かったため、どんどん身長も友人に抜かれました。視力も落ちたが、メガネをかけるのが嫌だったのでそのままにしていました。こういったことがテニスで勝てない要因にもなっていました。少し劣等感を味わいました。
※東京農業大学第二高等学校時代
通学時間が変わらないなら自分の力で行きたい、という気持ちから電車通学ではなく、1時間の自転車通学を選びました。加えて、自分の使うものは自分で直したい気持ちがあり、自転車パンク修理キットをいつも持っていました。
パンク修理の際はバケツに水をいれて修理箇所の穴を見つけるのですが、一度パンクをした時に、私は修理のための水を自転車屋さんに借りるという世間知らずな事もやりました。当時は、自転車屋なら道具はそろっているだろうというただただ直感的な考えと、自転車屋さんに「自分でパンク修理を直せるのか!偉いなぁ」と褒めてほしいという、自分中心な考えからだったと思われます。もし、その時に自転車屋の店主から「跡取りになってほしい」と言われたら、私は自転車屋になったでしょう。言われませんでしたが。店主は怪訝な顔をしたと記憶しています。
結果として私は3年間自転車で通いました。2台自転車を乗りつぶしたと思います。忘れたころに成長期がきたので、今では170センチ後半と平均よりは高いです。
違うスポーツをしてみたいという中学からの友人からの誘いで、バレー部に1年間在籍をしました。ですが、腰を悪くして退部をしました。
その後はエレキギターを買って音楽にハマりました。
そんな私が高校生で頑張ったことは、好きな娘の前で良いところ見せたくて3年生の時のマラソン大会(山道を10キロ以上)を頑張り、60位!くらいでした(全学年男子800人くらいでしたか?)
ただ、走り切ったとたん、両足をつる。という限界を超えた経験もしました。私より着順が早かった友人に「すごいな」と驚嘆されました。人間、やればできるものです。ちなみに、この時の恋心は実りませんでした。
※共愛学園前橋国際大学時代
特待生をとったため、群馬県前橋市にある、私立大学へ進学。
音楽にのめり込んでいたため、勉強そっちのけだったことが理由で、1年間で特待生を継続できませんでした。代わりにバンド活動を積極的に行い、作曲などの制作活動の大変さや楽しみやライブコンサートなどの「魅せ方」、その場での対応力などを学びました。仲間とライブのため地域を回ったことは良い思い出です。
アルバイトでは「体を鍛える事」と「お金を稼ぐこと」が一緒に出来るという理由で、酒のデパートで働きました。瓶ビール大瓶4ケースを軽々持てるようになりました。また、お酒の種類を覚えたりカクテルの本を読んだり、「バーテンダー」の映画をみてバーテンダーに憧れたりしました。
ちなみに学業では金融のゼミに入り、卒業論文は、バブル崩壊についてだったでしょうか。
【社会人になってからのできごと】
就職は就職氷河期後半と言われる2005年でした。
金融関係の仕事を希望するがことごとく落ちました。
結果は全く畑違いでしたが、説明会での印象と実際の面接官と話が弾んだため大手通信社から内定をもらい群馬県にて勤務しました。
同僚の結婚式のためにSAXを吹きたいと思い、SAXを購入するとともにヤマハ音楽教室に通い勉強しました。余興を大成功でした。
数年間ののち、管理職に昇格し東京に転勤となりました。それが私の転機にもなりました。
新事業の立ち上げを任され、当時の残業時間は月に100時間以上を超える事も多くなりました。
毎日の業務をこなす事で精一杯の日々の中で、休日も寝て過ごす事が多くなりました。また、同僚が次々とプレッシャー等で倒れる中、これでは自分の身体も壊してしまうのではないかと働き方を考えるようになりました。
ある日、顔見知りの同僚が過労が原因で命を落とす事がありました。
一緒に働いていた同期が「がん」に罹患し休職をしました。そして、彼女は亡くなりました。今考えると、仕事が休めないなか、がんは進行していたのだと思います。当時私たちには彼女の休職理由を聞かされていなかったため、私は忙しい中休んだ彼女を疎ましくも思っていました。本当に申し訳ないことです。後で聞いた話では、彼女は生前、当時お付き合いしていた男性と病室でささやかな結婚式を挙げたそうです。
私は彼女が休職している時に、日本一の販売店担当として表彰されました。今考えると、あの1位は若者を使い捨てしながら得た称号だと思っています。
私はその後、生き方を模索している中で生命保険業界からのスカウトもあり、逃げるように外資系生命保険業界に転職しました。3年後に独立。
その際、「地域に根付いた活動をしたい」と思い、当時住んでいた武蔵小杉でNPO法人のラジオ体操理事として参加しました。ラジオ体操活動を3年間行いました。
また、地域医療を根差した医師と一緒に「暮らしの保健室」活動に代表される一般社団法人プラスケアも立ち上げました。
この時には、川崎市の無所属市議の後援会長も務めました。彼は年下でしたがとても尊敬できる人物でした。「まちづくり」「政治」に興味を持つきっかけにもなりました。
2015年12月、結婚を機に妻の実家である目黒区に引っ越し、同居を始めました。
保険営業と地域活動の中、知り合いになりました星見てい子さんが2017年に区議から都議へ当選する。その後、活動等を見込まれ、後継者として2019年の共産党目黒区議予定候補として活動を始めました。
保険屋としての知識と地域活動から「医療、福祉担当委員」をやっています。また、星見都議が区議時代から10年以上毎週開催している「なんでも相談」を引継ぎ行っていく中で区民の声やまちの改善、生活に困難な方の助けになれるよう活動をしています。
以上
最愛の妻と二女。
※最愛の娘と休日に。